「あと15%下げてもらえれば、今日決めます」
大型案件の最終商談で、顧客からこう言われたらどうしますか。
ここまで半年かけて提案してきた。技術部門にも協力してもらった。今月の売上目標にも大きく影響する。
そんな状況では、「何とか受注したい」「ここまで来て失注したくない」という気持ちが強くなります。
その結果、本来なら受けるべきではない条件まで飲んでしまう。営業の価格交渉で起きる典型的な失敗の一つです。
このとき重要になるのが、交渉学の基本概念である BATNA(バトナ) です。
BATNAとは何か
BATNAとは、Best Alternative To a Negotiated Agreement の略です。
日本語では、「交渉が成立しなかった場合に取れる最善の代替案」と考えると分かりやすいでしょう。
難しそうに見えますが、営業現場で考えることはシンプルです。
この商談が成立しなかったら、自分たちは次にどうするのか?
これを交渉に入る前に決めておく。それがBATNAです。
なぜBATNAがない営業は値引きに弱いのか
例えば、顧客からこう言われたとします。
「10%下げてくれれば契約します」
そのとき営業側が、「この案件を失ったら終わりだ」と思っていたらどうでしょう。
断ることが非常に難しくなります。
相手の交渉力が強いからではありません。こちらが、「この顧客と契約する以外に選択肢がない」と思い込んでいるからです。
ところが実際には、来月には別の大型案件がある、他の見込み客への営業活動に時間を使える、利益率の低い案件を断れば人員を高採算案件へ回せる、条件の良い別顧客を開拓できる、といった選択肢が存在するかもしれません。
それらを整理してみると、「この条件なら、無理に取らなくてもいい」と判断できる場合があります。
この状態になるだけで、交渉の景色は大きく変わります。
「受注すること」が交渉の目的ではない
営業をしていると、どうしても 受注=成功、失注=失敗 と考えがちです。
しかし、本当にそうでしょうか。
100万円で受注したとしても、追加対応が大量に発生し、利益がほとんど残らない案件なら、会社にとって良い受注とは言えません。
逆に、その案件を断ることで時間や人員を他の優良案件へ回せるなら、失注した方が会社全体では良い結果になることもあります。
交渉の目的は、何が何でも合意することではありません。
合意した場合と、合意しなかった場合を比較して、どちらが自社にとって良い選択なのかを判断することです。
BATNAを持つ意味は、ここにあります。
BATNAは「逃げ道」ではなく交渉力になる
BATNAというと、「商談がダメだったときの予備案」くらいに思われるかもしれません。
しかし実際には、それ以上の意味があります。
BATNAを持っている営業は、断ることができます。
断れる営業と、断れない営業では、同じ商談をしていても交渉力がまったく違います。
例えば、「この価格以下なら他案件を優先する」「この納期では品質を保証できないので受けない」「この条件なら今回は見送る」という判断ができる。
つまりBATNAとは、交渉が決裂したときの準備であると同時に、交渉中の判断軸でもあるのです。
商談前に確認しておきたい3つのこと
1.この案件が取れなかったら何をするか
まず考えるべきはここです。
別案件を追うのか。既存顧客への追加提案をするのか。別市場を開拓するのか。空いた人員や時間を何に使うのか。
「失注したら終わり」ではなく、次の行動を具体化します。
2.その代替案は、今回の契約より本当に悪いのか
受注額だけを比較してはいけません。
粗利益、工数、納期、追加対応、将来性まで含めて考えます。
売上1000万円でも利益がほとんど残らない案件と、売上500万円でも利益率の高い案件なら、後者の方が会社にとって価値が高いこともあります。
3.どこまでなら譲れるのか
BATNAを考えると、「この条件を超えるなら、合意しない」という境界も見えてきます。
商談中にその場の雰囲気で決めるのではなく、冷静な状態で事前に考えておく。これが重要です。
値引きを求められた瞬間に考えること
顧客から値引きを要求されると、多くの営業は、「いくらまで下げられるか」を考えます。
しかし、その前に考えてほしいことがあります。
本当に値下げしてまで、この案件を取る必要があるのか?
ここです。
値引き交渉になると、目の前の契約だけを見てしまいます。
しかし営業交渉では、テーブルの外にある選択肢も含めて考えなければなりません。
その案件を失った場合に何ができるのか。別の選択肢はあるのか。
それを持っているだけで、必要以上の譲歩を防げます。
BATNAは商談の前につくる
BATNAは、追い込まれてから考えるものではありません。
顧客から「今日決めるなら15%下げて」と言われた後では、すでに心理的に追い込まれています。
半年かけた商談。今月の売上。上司からの期待。さまざまな感情が判断に入ってきます。
だからこそ、BATNAは交渉テーブルに着く前につくる。
これが基本です。
商談前に、「もし合意できなかったらどうする?」と一度だけ自分に問いかける。
それだけでも、交渉中の判断はかなり変わります。
今日の実戦ポイント
今回覚えておきたいのは一つだけです。
逃げ道をつくれ。断れない交渉に入るな。
強い営業とは、何でも押し切れる営業ではありません。
必要な条件ではしっかり合意し、条件が合わなければ断れる営業です。
そのためには、「この顧客しかいない」状態をつくらないこと。
商談前にBATNAを持っておく。それが、価格交渉で自社の利益を守る第一歩になります。
営業交渉術を体系的に学びたい方へ
BATNAは、営業交渉で使える考え方の一つにすぎません。
実際の商談では、価格、納期、条件、社内稟議、競合、顧客の心理など、複数の要素が同時に動きます。
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営業交渉術137の原理
このシリーズでは、交渉学・心理学・行動経済学・意思決定論・行動科学などから、法人営業の現場で使える137の原理を一つずつ取り上げます。
次回は、BATNAと深く関係する 「留保価値」。
「いくらまでなら下げてもいいのか」を商談中に考えるのではなく、交渉前にどこまで決めておくべきなのかを解説します。